2009年10月アーカイブ

杭工事@白山の家

昨年からお手伝いをしているM邸(仮)の現場に行ってきました。
とうとう現場が始まり、今日は「杭工事」です。
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今日は、杭工事です。
地盤の弱い場所や、大規模な建物を作る場合、建物を支えるために、通常の基礎工事に加えて、各種の方法により補強を行います。
(左側の写真が杭打ち機です。あまりに高さがあって全体が撮り切れません)

M邸は戸建ての個人住宅ですが、RC造の4階建てと、木造住宅に比べて規模も重量も大きくなっています。
そのため、今回は、集合住宅やビル工事に用いられる「杭工事」を採用しています。

今回の杭工事、簡単にご説明すると
1.直径60cmの穴を5m掘ります。
2.穴にソイルセメント(土とセメントのの混合物。昔の家の土間の強い物を想像してください)を流し込みます。
3.長さ5mの鉄柱(写真右)を打ち込みます。
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この方法によって、大変硬い地中の地盤から、太さ25cm程度鉄柱を芯にした60cm太さの柱で建物を支えます。
(直径25cmが左の写真です。その太さが分かりますでしょうか?)
この柱が、今回は17本。
とても安全側を見て強固に設計しています。






さて、「杭」自体とは関係がないのですが。
都心の住宅においては決して小さい敷地ではない(むしろ大きめです)のですが、これだけの重機(杭打ち機やパワーシャベルなどなど)が入ると作業できる面積はとても狭くなります。が、さすが熟練の職人さんたちでした。杭打ち機とパワーシャベルが同時に旋回するときも、素人の僕が見ていて「あっ!」と思うところがあるのですが、ぎりぎりですれ違うのです。

03.jpg上の写真が現場の様子です。
敷地の中に重機二台に加えて、鉄柱、ソイルセメントを作る機械、それを押し出すポンプなどなど。

あれだけの大きな機械をまるで自分の手足のように扱って、それを誘導する人が一人いるのですが、全部の空間や機械の大きさを把握しているのでしょうか。本当に鮮やかで、まるでサーカスを見ているようでした。
一見何気ないことかもしれませんが、こういった技術者達の手際は見ていてあきませんね。


もし、どこかの工事現場を見かけたら、その作業している方の手元に注目してみるのも面白いかと思います。
(あまりジロジロ見ると怒られますから注意が必要です。ですが職人さんは基本的にいい人が多くて、時々解説なんかしてくれます。しかし現場は素人には危険な場所ですから、こちらも十分な注意が必要です)





山本理顕講演会 「地域社会圏という考え方」

先週ですが、建築家 山本理顕さんの講演会に行ってきました。
(山本氏についての詳しい情報はこちらのサイトをご覧下さい。)
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上の写真は山本理顕さんの近作、「福生市役所」です。
題目は、「地域社会圏という考え方」

自分が、住宅専門で設計活動をやっていくぞ!と考えていますから、山本理顕さんのような大きな公共建築を設計されている方の話はどうかなぁっ・・・と思っていたのですが。
聞きに言って、これは大正解でした。
自分ひとりで事務所をやっているとあまり、外部との接触がない(接触がとても小さくなる)ため、外に出て、誰かの話を聞くというのは、とてもよい刺激となります。

前半は、題目の「地域社会圏という考え方」のお話。建築の役割を地域社会圏という観点から展開して、実作を絡めながらその効果について語られていました。後半は、近年の実作の紹介の話でした。建築家の講演会というと、大学の講義のような「○○概論」みたいなものではなく、近作の説明に終始する場合が多き気がします。
山本理顕さんも、この点を気にされているのか、前半の話の中では、時々話しを中断して、「大丈夫ですか?こんな話はつまらないですか?もう少ししたら盛り上がりますから」と言っていました。
しかし、この「地域社会圏」という概念ですが、とても共感することができました。どちらかというと、実作の紹介よりも、こちらの方が興味深かったですね。

前回、東京オリンピックについて思う事を書いたように、現状の都市(というか共同体)の構成をもう一度考え直して、建築ができる効果、責任、必要性を見直そうという話です。

2度の世界大戦までは、社会圏というのは、「共同体内共同体」であったが、近年の構成は、「1共同体=1家族」であると。その最たるものが、団地であり、今、設計に求められる価値は、その一つの範囲内(敷地なり、集合住宅の1戸)に向けられていて、景観や周辺環境を重視していない。そのため、共同体と言う概念が建築の設計に入っていないと言っていました。
(詳しくは、こちらの新建築2008年11月号の巻頭論文をご覧下さい)
その一つの範囲内だけに向けられる価値観と言うのは、不動産の証券化によって加速している。「1住宅=1家族」のパッケージ商品として扱いやすいからですね。


今、工事が進んでいる西箕輪・H邸でも、その敷地形状と、景観、または、これから住み始める周辺の土地のことを考えて、より低く、大地にしっかりと根を下ろした平屋建てとしました。屋根の形状も、何通りもスタディをして、経済的且つ景観に沿ったものを考えたつもりです。きっと、あの土地に、2階建ての四角い家が建つよりも、今の形状の方が、「景色として」正しい選択だったと思っています。
そして、僕の選択はクライアントの意向のみにあわせたものではなく、確かに周辺の景観を考えたことでした。もちろん、そういった配慮なり検討は作業量を大きくします。しかし、現在多くの設計方法、出来上がった建物を見ていると、そのクライアントと敷地内のことに配慮はしているが、周辺へはどうか?と山本理顕さんは問いかけていました。

そして、2点目。建築設計者への世の中の認識について。

「建物に対する発想は発注者が行い、建築家はその技術を供給するのみであって、思想は求められていない。(発言できない)」
このことは、新建築の論文には書かれていないそうなので、省略してご紹介します。
多分に僕の解釈が働いているので、このままの事を山本氏が言ったわけではないので、その点はご理解下さい。
建築設計に携わる物としては、大いに勇気付けられる話ですが、果たして、発注者となられる(可能性のある)方が読まれたらどうか?という疑問はありますが・・・。

「日本の社会は物を作る人(職人)に対しての敬意が歪んでいると感じます。歴史的に「職人」に対して偏見がありますね。はっきりと言いませんが、隠れた差別意識、また社会性が低いと考えられている。
また、日本の社会全体の風潮として、技術を公共の道具として思っていて、技術者は透明な存在となっている。それはつまり、透明な存在の技術者に対しては、思想を求めていない。人がいないのだから技術は盗んでもよい。先に言ったように、発想は発注者(旦那)にある。(その法律的な判断が、設計業務を請負としているところ)
木村壮太さんが言っていたが、建築家は文化専門職としなければならない。一部の犯罪者によって全ての設計者が悪者のように言われ、最近の建築基準法の改正でもとても僕らの仕事はやりづらくなっている。僕ら建築家は、お施主の利益確保のためだけじゃない、地域性と、利用者への責任もあるのだから、今の状態では、その責任さえも取らせてもらえない。」

いや、山本理顕さんのような日本のトップの方が言っているからごもっともなのですが、僕のよな「駆け出し」でも聞いていて嬉しくなります。
お施主様や発注者との交渉、意見の相違が合った時に、何を正義として考えるか。お金や仕事を貰うため(これはとてもとても大切なことですが)に何をグレーとして、笑顔を作るか。要求を満たすのみの仕事でよいのか。
よく、どれだけ間違っていると思っても、やりたくないことでも、仕事は仕事なのだから。我慢しろと言われます。
許容のバランスはまだまだ僕には分かりません。山本氏でも分からないと言っていました。

そして、最後に。
「日本は、技術に対する考えがとても後進国で、知的ではない。アジアの他の国々の方が建築家に敬意を払いますね。そろそろ居酒屋の愚痴にようになってきなので、今日はこのくらいで。」

とても気さくで、かわいらしいおじさんでした(と言ったら失礼ですが)

「やっぱり、僕は建築の設計が好きなんだな」と、「この仕事をやりたいんだな」と思いながら、気持ち良く電車に揺られて帰りました。オリンピック招致に東京が負けたことを知るまでは・・・。残念です。



東京オリンピックに思うこと

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小学校の国語の教科書に東京オリンピックの文章があったのを覚えています。
オリンピックのことを「オリンピチク」と言って、その単語の響きになんだか昔話のような、ノスタルジックな印象を持ちました。小さな子供の文章で、東京オリンピックを大絶賛。少々国粋的な雰囲気もありましたが、みんながオリンピックを歓迎して「喜んでいる」雰囲気はとても強く感じました。

今日の夕方、2016年のオリンピック誘致の結果が出ます。東京はやや劣勢。理由はここで書かなくてもいろいろところで言われています。

今回のオリンピック、とても期待しています。
東京で開催して欲しい。安藤忠雄の設計した晴海のメインスタジアムのイメージパースを電車広告で見ながら、いつも思っていました。
もちろん、一人の建築に関わる人間としても楽しみにしていましたが、僕は、一人の都民として、東京に住む者として望んでいました。

「オリンピック」というとスポーツ以外では、その大規模な競技場や、都市インフラの整備などが注目されますが、僕はこの「個々の競技場」ではなく、その意識に興味を持っています。


2016年に東京で開催される事となれば、東京という都市の方向性の舵が大きく切られることになると思っています。
前回の昭和39年の東京オリンピックはまさに高度成長、拡大路線の開発を伴うオリンピックでした。その恩恵に僕らはあやかって、「それがなければ」今の生活も相当様変わりしていたと思います。東京という都市の形が形成されることにもっと時間がかかったであろうし、今以上に無秩序な都市形成がされただろうと思います。
しかし、今回のオリンピックのテーマは「コンパクトオリンピック」より小さく、効率的なオリンピックです。環境に配慮しながら、旧時代の施設に手をいれ、「都市をコンパクト」にする方法だと僕は考えていました。もちろん、僕一人がそう思っていても仕方がありませんが、「東京が小さくなっていく」という意識を「コンパクトオリンピック」の整備を通してみんなの意識に影響を与えることになるだろうと思っていました。(と言ってもここまでは、よく言われていることですが・・・)


ロバート・キヨサキの言うラットレースから「都市」として抜け出せるのではないか。そのくらいのパラダイムシフトだできるのではないか。
世界の中で東京の経済的価値は、どんどんと小さくなって来ています。「市場」というだけでも、今年の1月~8月の売買高で上海市場に抜かれています。経済的価値でその存在感を誇示していた東京が、その一番の「売り文句」を失う。世界の中での存在感、アジア一番の都市としての東京は既に終わりに近づいています。



人口が減って、拡大した都市は小さくすることもできる。小さくすることで、より個性を育てて、生活し易い都市とする。
建築家 吉村順三はその著書で「大きな建物でも小さな住宅でも設計手法は一緒。いい住宅が設計できれば、大きな建物でもよい設計ができる」と言っていました。小さくすることで、よりプリミティブで人に近い住宅ができる。僕はそう思っているのですが、都市でも(その必要とされる機能は膨大になりますが)意識論では通じることがあると思っています。

ただ、人口が減って、無秩序に小さくなるだけでは、シャッターの閉まった地方の商店街のような、寂しさと、無気力感、廃頽感をぬぐいきれないと思うのです。
僕は今、多摩ニュータウンの団地に住んでいますから、より強く感じます。
住民の多くは老人で、空室が目立ちます。
かつて子供たちがたくさん通っていたであろう小学校や中学校は、「地域交流センター」に名前を変えて、まるで廃校のようになっています。
商店街は、「いったい、商売をするつもりがあるのだろうか?」という品揃えで、飲食店も夜の8時にはしまってしまいます。小さなスーパーもありますが、(大手のチェーンですが)大体のものが定価で売っていて、手の入れられていない街路や公園はとても荒れています。
「団地は日本のゲットー」などと言われても仕方が無いかと思うときもあります。
高度成長期に東京への人口集中の象徴として整備された多摩ニュータウンはその「都市の方向性」の変更と時代の変化によって、栄養を絶たれた末端器官のように死んでいく。そう感じるのです。

もちろん、都心へ行けば、街中ドンキホーテのような煩雑感。『ブレードランナー』のような、外国人から見れば「サイバーパンク」な東京。これは否定しません。東京という都市の個性だと思っています。
レインボーブリッジから眺める東京の夜景は、僕が知っている都市の中では最も美しく、巨大な造詣に圧倒されます。幼稚な言い方ですが「街がキラキラしてキレイ」です。新宿西口の高層ビル群に車で入っていく独特の「街の中へのダイブ」感はとても好きです。

「都市が小さくなっていくこと」に対すると方向性を示しながら、ここに生活する人の意識に影響を与えるよい方法だと、僕は今回のオリンピックに期待をしています。

「東京で世界的なイベントを開催して、盛り上げよう!」「世界に東京をアピールしてガッポリ儲けましょう!」という意義だけではないと僕は思っています。それだけでは、今の長野市(1998年に冬季オリンピックが開催されました。当時、僕は信州大学の大学生でボランティアにも参加させてもらいました。駅前の施設やホテル、幹線道路、競技場が整備されましたが、僕の印象ですが、開催から10年が経ち、その成果と恩恵が残っているのは道路だけのように思います。空室が目立つホテルや競技施設など、その負荷に街自体が苦しんでいるように思います。もちろん、僕が知らないだけで、大きく作りすぎた道路の維持にも苦しんでいるかも知れません。長野県の建設業界の人に聞いても、その経済効果は一時だけのもので、今はぜんぜん駄目とのことでした。当時長野市からの出店要請を断ったスターバックが正しかったのでしょうか)のように、すぐになくなってしまう。金の卵を産む鶏をソテーで頂くような事では無いと考えています。

さて、住民の盛り上がりが欠ける東京オリンピック誘致ですが、どうなるでしょうか。
大層なことを偉そうに書きましたが、生きているうちに、自分の街でオリンピックが開催される。(しかも2回も)というのは、単純に楽しみなものです。
がんばれ石原軍団!